断片置き場

小説とか書評とかを書いていくつもりです

月の部屋で会いましょう

 

月の部屋で会いましょう (創元SF文庫)

月の部屋で会いましょう (創元SF文庫)

 

 アメリカの作家レイ・ヴクサヴィッチの奇想あふれる短編集。1編は短いものが多いが、35編も入っているのでボリュームたっぷり。

肌が宇宙服へと変わってしまう病気にかかった妻と過ごす日々「僕らが天王星に着くころ」、体中に虫が住み着いてしまった男と妻とのやりとりの「家庭療法」、生きているらしい”自転車”たちを狩って暮らす若者「俺たちは自転車を殺す」…。

荒唐無稽な世界観が目立つが、そればかりでもない。床屋の従業員がカットを行う、そこで起こる事件「床屋のテーマ」などはぶっとんだ設定が持ち込まれたりはしない。しかし、髪を切るというシンプルな場面でありながら、その比喩はジャングルを分け入り、ついには世界一周旅行のような壮大なものになる。そう、やはり一筋縄ではいかないのだ。

なによりも「セーター」が好きだ。なにしろこの作品でこの作者を知り、惚れてしまったくらいなのだから(この作品は岸本佐知子編のアンソロジー「居心地の悪い部屋」にも収録されている)男が、恋人の作った手編みの不格好なセーターを着ようとするのだがうまくいかないという、筋だけだと情けないような話だが、言いようのない寂しさを感じる短編だ。セーターの中はまるで異世界であり、主人公は懐中電灯を求めるあたりなどはシュールだが、ラストのセリフに心がざわめく。二人共ども自分の見ている風景も、目指すところも異なっていて、すぐ近くにいるはずなのに通じ合わないのだ。

全体として他者とのディスコミュニケーションであるとか、権力あるいは現実の情け容赦のなさを感じることが多く、奇想を楽しみながらも少し暗い気分へとさせられてしまう。まあ時にそういう気分になってもいいじゃないか、冷えた薄暗がりに浸っているのも、そう思える作品集だった。

どこの家にも怖いものはいる

 見れば見るほど不気味な、夢に出そうな表紙である。ホラーやミステリ、あるいはその融合ともいえる作品を発表し続ける三津田信三氏の長編ホラー小説。

怪談好きな作家と編集者が集めたいくつかの住居にまつわる怪談、それぞれ場所も時代も異なるはずなのに、言葉にしがたい共通した要素を二人は感じる。二人はそれぞれの怪談の背景について調査し始めるのだが…

実はミステリ要素をうまくいれるという評判をあちこちで聞いていて、かえって避けていた作家なのだけど、読んでみたらこれが面白い。

「三つ目の話 幽霊物件」が特に好きだ。アパート暮らしの大学生が屋根や隣室からの不可解な音に悩まされることが契機となり怪異に見舞われる話。辻褄の合わない場所へ迷い込んでしまったあたりの張り詰めた、冷や汗のでる雰囲気。

作中の作家=著者という語り方で、著者の他作品への言及を織り交ぜながら調査していくので、荒唐無稽な出来事に現実味を帯びさせる仕掛けになっている。それをうけることで、この小説を読んだ人のところにも「出る」というメタな注意書きにも迫力が生まれるわけだ。

不気味な空間の描写がうまい。小物などの配置とその語る順番なども非常に計算されている。

大筋に付随している小品的な怪談がまた面白い。1つ一行程度の怪談が羅列されるくだりもあり、読み手を追い打ちしてくる(寝ていると気配がするので怖くて目を閉じていると、「開けて遣ろうか」と耳元で言われる、など)

細部にまで拘りが感じられる、小野不由美残穢」とならんで家でじっくりと楽しめる怪談本だった。

恐怖の構造

 

恐怖の構造 (幻冬舎新書)

恐怖の構 造 (幻冬舎新書)

 

 近頃、映像化されたり(『独白する横ユニバーサルメルカトル』)コミカライズされたり(DINNER)と、ますます勢いのある作家平山夢明氏が恐怖の本質に迫ろうとする一冊。

若いころ映画製作を志していた、というところから映画を例にとって語る部分が多い。「エクソシスト」「シャイニング」のホラー映画、「ゴッドファーザー」「タクシードライバー」のようなホラーとは違ったジャンルの映画まで。

作品発表時の社会情勢などを絡めながら分析的な語り口でわかりやすく語られ、サクッと読める。

特に興味深く読んだのが「不安」と「恐怖」の違いについての部分で、対象が明確なものへと抱くのが「恐怖」、漠然としたものへと抱くのが「不安」と区別したうえで、厄介なのは「不安」のほうだという論。漠然としているがゆえにそれを乗り越える具体的な方法がないからだ。

現代は不安渦巻く社会だが、著者はそれをどう乗り越えるか、という解決方法には論を進めない(そういう仕事ではないし)。それが次の傑作ホラーを生み出すのではというかなり歪んだ期待へと筆を進めていくのは面白く感じた。

もう一点興味深かったのは、「エクソシスト」の製作エピソードの紹介部分で、昔のこととはいえそんなえげつないことをやっていいのかと驚いてしまった(映画通には有名なのだろうが)。

かなり私自身のホラーの考え方に合致するところが多く、そのうえであまり鑑賞することのない映画というジャンルの語りから平山流ホラー映画ガイドとしても読めた。

ただ…冒頭の著者の不謹慎な行動が関係者に怪我などの不幸を起こしていたと思われる”川崎大師事件”を笑い話として話すセンスは行き過ぎていると感じるし、それを聞いて笑うというファンの構図についてもあまり愉快には感じられなかった。このあたりは著者の作風を面白くは感じても、心底好きとは言えない理由となのだろう。

作品を自ら生み出しながら、そのジャンルについて明確に言語化できる語り手は結構貴重だ。毒がきつい部分もあるものの、様々な角度から恐怖の本質に迫る書であり、参考になった。

拝み屋怪談 始末

 

拝み屋怪談 怪談始末 (角川ホラー文庫)

拝み屋怪談 怪談始末 (角川ホラー文庫)

 

 人々の悩みを祓い、無念を晴らす拝み屋。仕事で解決した不気味な話を怪談として仕立てる、そういうちょっと変わった語り口の怪談本。

一話一話がとても短いので筋を紹介することも難しい(実話怪談本は大抵そう)が、主人公の小さいころから現在に至るまで続くある少女を巡るエピソード「桐島加奈江 壱~五」が特に面白く、紹介したい。

・主人公は少年時代、自室での熱帯魚の飼育を趣味としていた。ある日夢の中で出会った少女加奈江に惹かれていく、学校でのいじめもあり次第に現実が疎ましくなり、彼女と過ごすために寝てばかりいるようになる。二人の共通の関心は熱帯魚で、水槽を眺めて過ごすことも多かった。加奈江からの誘いで熱帯魚のお店でアルバイトすることになるが、そのお店は現実に主人公がいきつけの熱帯魚屋だった。夢の中で二人はますます親密になるが、ある日現実のあの熱帯魚屋に行くことになる。そしてその帰り道に、現実にいるはずのない加奈江と出会ってしまう…

現実と夢の境界は崩壊し、怪物と化した加奈江に彼は何度も脅かされる。これ以外のエピソードではほとんど淡々と語り、大抵の問題は問題なく解決しているようだが、加奈江には何の効果的な対策も見いだせず怯える。そのギャップが読者に危機感を覚えさせる。

夢の中で不可思議な少女と触れ合いながら、熱帯魚の泳ぐ水槽を見るという美しいヴィジョンが、現実とすり合わせられた瞬間に一気に崩れ去ってしまう、そういった趣があり非常に好みだ。

怪談全体の配置が巧みだ。ところどころに拝み屋自身に襲い掛かる怪異の話もあり、緊張感もある。単体では取るに足らないような話(動物が不気味だったとか)があることで緩急も利いている。

どうやら桐島加奈江の話は続巻でより詳細に深く語られるらしい(「拝み屋怪談 来るべき災禍」にて)シリーズものを追うのは久々だが、楽しめそうだ。

だから見るなといったのに

だから見るなといったのに: 九つの奇妙な物語 (新潮文庫nex)

だから見るなといったのに: 九つの奇妙な物語 (新潮文庫nex)

 

 日常生活、あるいはその延長上だと思われていたイベントで、潜んでいた恐怖を題材にしたなかなか豪華なメンバーのアンソロジー

理不尽な怪異もあれば「人間が怖い」系もあり、豊かなバリエーションで楽しませてくれる。

ただ、タイトルどおりに後悔させるほどのの凄みのあるものはなかったかな。

特によかったものを挙げておく。

芹沢央「妄言」

・引っ越してきた夫婦。隣室の中年女性は妻にとてもよくしてくれる。夫は助かるとはじめは喜んでいたが、ありもしない話を妻に吹き込むようになり夫婦仲に亀裂が…

厄介な隣人を扱った作品で一番現実で起こりそうな話、いやだなあと思わせておいて、最後の最後でちょっと違う要素を組みこんでくる。このジャンルの組み換えがうまく作用して、読者の人物にたいする印象を大きく揺さぶって不安を掻き立ててくる。巧みだ。

 

ホラー熱が上がってきているのでもう少し掘り進めたいところ。

「黄色い雨」

 

黄色い雨 (河出文庫)

黄色い雨 (河出文庫)

 

 スペインの作家、フリオ・リャマサーレス著の小説。

物語は、廃村に唯一残った最後の男が、在りし日の村の回想に耽ったり、幻覚に襲われたりしながら衰弱していき死に至る、その過程を描くもので、これだけでは退屈に聞こえるかもしれない。

 

冒頭、隣村の男たちが最期の住人である私の死体を見つけにやってくる様子を、亡骸となった私の視点から、「~するだろう」と予測するような形で描いているのに驚いた。一見奇妙な語り口だが、この物語がすべて終わってしまったことを描くのに費やされている、ということを示す上で秀逸なやり方だと感じる。

何もかもが失われていく村の中にいる、正気と狂気の間に挟まれた男が見る世界は残酷でありながら、どこまでも美しい。キイチゴ、サンザシ、クレソン…様々な植物が村中を覆い始めている。無味な喪失ではない、草木が色づけながらの荒廃がある。自然へと呑み込まれていく過程ということなのか。

 そしてタイトルの「黄色い雨」とは。それはリンゴの腐敗に例えられ、時の流れによる浸食と忘却がすべてを損なっていく様子を、おぞましくも美しい形で現している。村全体が黄色く染まる光景に目がくらむ。

ラストもまた冒頭を引き継いで、語り手が隣村の者たちが私を発見したあとのことを推量する形で描いており印象深い、特に最後の一文は。

想像を絶するほどの孤独で静謐な生活に没頭してしまった。素晴らしい小説だった。