断片置き場

小説とか書評とかを書いていくつもりです

記述する意欲を取り戻したい

1年もほうっておいたところに何かを書く。新雪に足を踏み入れたような心地だ。冬らしい。

本は読んでいる。物語を読むことをやめることはできない。しかし。ここに何かを書く意欲がない。twitterでちょっと何かを言ってだいたい満足する。

1年くらい前から紙の日記を書くことを続けていて、そこにも本のことを書く。ますますブログは思考の片隅に追いやられる。広告という名の埃を被り眠りについてしまう。

別に本のことに限らなくていいし、気の利いたことを書かなくてもいいが、ある程度まとまった分量の言葉を並べてみたいという意欲が少し出てきている。

読んだ本のことに、連想した少し遠いこと、日常のこと、個人的なことを少し絡める、あるいはまったく空想に終始する。使い方よりもなんでも書いていくことを大事にしていくべきだ、そう思い始めている。

ひとまず500字くらいでいこうか。週一くらいでいけるといいが、どうなるかわからない。分量をある程度決めて内面から絞り出す、コツを思い出すためにこのくらいの縛りがあったほうがいいはずだ。今携帯にアラームをつけた。これでやっていこう。

来週は今読んでるジョーヒルの『怪奇疾走』について書きたいと今は思っている。珍しく、未来の自分に期待している。

魔女の話

甲田学人のMissingシリーズは2001年から2007年にかけて刊行されたホラージャンルのライトノベルだ。それが加筆修正されふたたび刊行されることとなった。

甲田先生のファンの一人として多くの人にまたこの作品を手に取ってもらえる機会が来たこと、それは喜ばしいことだ。

ただ、嬉しい、めでたい、といった気持ちよりもまず先に、またあの「魔女」と出会えるのだという気持ちが強かった。

だからこれから私は「魔女」の話をする。シリーズの根幹をなすキャラクターであり、少しでも語ろうものならネタバレは避けられない。だからこれはこれからMissingを読む人のための文章ではない。

魔女が私に昏い夢を見せるから、それを吐き出してみせよう、そういうことだ。

続きを読む

「私は幽霊を見ない」

 

私は幽霊を見ない

私は幽霊を見ない

 

 ホラー作品を愛する著者、しかし実際に心霊現象に遭遇したことはない。そんな作者が怪談話を蒐集しつつ、どうにかして実際に遭遇できないかと苦闘する、少し怖いところもあるけれどユーモラスなエッセイ。

幽霊は人間の脳の中の電気信号だろうと述べているように著者は超自然的な事象に懐疑的な態度である。それが前提だとしても怪談を楽しむという著者のスタンスが、私の怪談の鑑賞態度と近く心地よかった。

面白かったのは藤野先生がエア猫を飼っている、という話。アレルギー持ちの作者の、それでも猫を飼いたいという欲求を不思議な方法で実現している。イマジナリーフレンドならぬイマジナリーペット、かわいらしいと思ったのだけど、表紙や文中のどこか不穏な文章と合わせると想像が広がる。

私もまた幽霊を見ない、見たことがない。見たいという気持ちもやっぱりある。でも終わりに書かれる、藤野先生の考える幽霊の在り方はとても素敵なものだった。私も幽霊を見なくてもいいのかも、と思った。

ピクニック・アット・ハンギングロック

 

ピクニック・アット・ハンギングロック (創元推理文庫)

ピクニック・アット・ハンギングロック (創元推理文庫)

 

 オーストラリアの奥地で上流階級の少女たちを教育する学院を舞台におこる、不可解な失踪事件を描く。原作は1967年発表とのことだが長い間翻訳がなく、ようやく昨年末に翻訳がなされたとのこと。

冒頭のピクニックのシーンに始まり、学院や庭園での散策の場面など美しい自然描写がちりばめられている。特にピクニックのシーンはその中を美しい少女たちが歩いていくということもあって、際立った美しさであり、少女らを目撃した好青年マイケルの心が奪われたのも無理はないと思うほどだ。甲虫や蟻と少女たちー美醜の対比なども用いながら世界観を濃密にしている。

全体の構成としては、幻想性の高い冒頭から現実的な問題に行き詰まる終盤へという流れがあるように感じる。

事件により多数の生徒が退学を決め、追い詰められていく校長こそはこの終盤を担う象徴的な人物であることは間違いない。現実的な問題への対応を尽くしたが、ハンギングロックで起こった事件はまったく致命的であったために無力であり正気を失っていった。

校長だけでなく多くの関係者の未来に影響を与えていく事件が結局のところブラックボックス化していくあたりがまさに絶妙。

ああもうこの場所は終わりなのだ、という行き詰まりには悲壮感が漂う。だが一方で濃密な美的世界が崩壊していく様は美しくも思える。ぞくぞくとしながら読みふけった1冊。

夜のリフレーン

 

夜のリフレーン

夜のリフレーン

 

幅広いジャンルを自在に描く皆川博子の数ある短編の中で、今まで単行本に未収録だったものの中から日下三蔵氏が編んだ、美しい宝石棚のような短編集。

終わらない悪夢にとらわれた、若くて短慮な男「夜、囚われて……」、自身の精神の落ち込みを救った笛の奏者にかける妄執ともいえる想い「笛塚」、いわくつきのひな人形の真相「七谷屋形」、近代的な価値観の押し付けが引き起こす不協和音「紅い鞋」…。

追想される過去の出来事たち、語り手たちの中でいつまでも繰り返されるリフレーン。

特に気にったのは「新吉、おまえの」。良家の娘が幼いころのこと、冷たい親よりも温かく接してくれた奉公人とでかけた祭りの夜。水あめ、下駄、神社の御手洗、そして起こる凶事。因果関係の不透明さ、幼さのある語らいの理由、愛情の迂遠な語り方というべき「おまえの…になりたいよ」、斬新なようで狂いなく仕掛けられた比喩もあり、ただひたすらに美しい一編だと感じた。

心の中に部屋がある。人を捕らえて離さない、心地よさと、苦痛や後悔がひしめく部屋が。そこから抜け出したとしても、はずみでその部屋の在処を思い出すときがくるのかもしれない、これらの物語のように。そう思うと空恐ろしい気分になった。私の中のリフレーンにどうか、私が気づきませんように。

いやしい鳥

いやしい鳥 (河出文庫)

いやしい鳥 (河出文庫)

 

 「爪と目」で芥川賞を受賞した藤野先生の小説、私にとって待ち望んだ文庫化。

「溶けない」「胡蝶蘭」も素晴らしいが、表題作の「いやしい鳥」の不気味さ、不可解さ…

大学で非常勤の講師をする高木は、講義の打ち上げでトリウチという変な男子学生に絡まれる。トリウチは泥酔してしまい、やむなく自宅で介抱することとなるのだが、翌日高木が留守にしている間に、トリウチは高木の飼っていたインコを食べてしまう。怒る高木とそれを嘲笑うトリウチ、しかし彼の様子はさらにおかしくなり、体から羽毛が生え始め、体全体が鳥類のように変化していく。高木は狭い家の中で怪物と化したトリウチとの戦いに臨むことになる…

愛していたペットと憎むべき男が混ざりあい、襲い掛かるという構図は実に気持ち悪く感じられる。

発端の男子学生ことトリウチの不気味さがすさまじく、ふざけた行動、甘えたような物言い、不躾な態度でまったく好感のもてるような要素のない人間で、何もこんなやつを介抱しなくても、とも思える。しかしこのトリウチという人物はひどくあやしい存在で、そもそも高木の講義の受講生ではないし、飲みに参加していた他の学生たちともその日初めて出会ったらしい、なによりこの筋書きでトリウチという姓というのはできすぎているのではないか…

講師である高木について考えるのも面白い、彼はおそらく高学歴なのだが非常勤の講師に甘んじ、アルバイトをしながら食いついないでいる。結婚していたが妻はなんらかの理由で少し前に家から出て行ってしまった。今は若い女性と付き合っている。この物語はあの「鳥」についての騒動がひと段落してから、その彼女に語った内容ということになる。彼の語り方はいちいち細かな脱線をして要領をえにくく、問題が起これば責任は自分にはないと逃れようとする性質も感じられ、この語りへの信頼を低くしてしまっている。

こう考えると高木によるなんらかの妄想や別の事件を誤魔化しているよう筋書きを考えてしまうが、ラストあたりを見るとそういうわけでもなく、ますます混乱してしまう。

全体で見ればホラー的展開であり緊迫感もあるが、細部をみれば語りの怪しさや、外部から観察を行う目(隣家の内田家の主婦・高木のバイト先上司・高木の彼女)が事件の核心をとらえられないあたりに文芸的な面白みを感じる。

ラストの言いよどみによる唐突な幕引きは私たちの心をざわめかせる。物語から追い出される格好になり、どうしてこんなところにいるのだろう、と途方に暮れる。